(1)東栄町原田家の御札コレクション約4000点の整理と撮影を実施して、カード取りと写真撮影を完了することができた。カードにもとづき、研究協力者に手伝ってもらい約4000点のデータベースをつくりあげた。そこからわかることは、(1)明治維新を境に御札の形態・量が変化することである。とりわけ秋葉山、立山、金比羅、熊野など近世後期に盛んになった山岳霊場、神宮寺などの御札は、明治維新を境に数が減少することを確認できた。これは、山岳霊場や習合的な寺社の御師的宗教者が、消滅したこととよると思われる、(2)明治10年以降、熱田、津島、豊川稲荷の御札が増えるが、近代的な講社が復興と対応するものであろう、(3)近郊の寺社から発給される御札は、近代になって増加している点が注目される。遠隔地からの配札が激減し、その空白を埋めるようにして近郊の寺社が活躍した結果だと解釈できる。 (2)本山・本所に編成された芸能的宗教者が身分集団を形成して、妻、子も同じく祈祷・祓・芸能を行ない、身分集団に含まれる場合が多いことが、神事舞太夫、梓神子、当山派修験、吉田家配下の神子などの事例によって理解された。それと比較して津島天王社の御師を調べると、津島天王社の神職であり、家族が廻檀・配札に関わることがない。英彦山の場合-山組織が確立して、配札も組織的に運営されていることがわかった。また甲賀町甲南町の史料調査によって、多賀大社の坊人は、配札を専門に請け負っており、多賀大社に属する宗教者であるわけでなかった。これは配札活動じたいが、専門化した形態ということができよう。 (3)近世の宗教者の活動を特徴付けるものが「配札」「祈祷」であったのが、近代になると教導職に見られるように「教化」が期待され「雑誌」が刊行された。「御札」が近代以降に減少する社会的要因を考えていきたい。
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