本年度は漠然とした感覚によって喚起される一種の徴候的知や、ミニチュア化=縮小によって徴候的細部と化した対象が「予感」という形態で、現前する世界とは異なる世界を感知させる現象などをめぐる思想的な取り組みを、九鬼周造、パース、バシュラール、ベンヤミン、ヴァールブルクをはじめとする思想家の比較思想史的な分析によって総合的にとらえる作業を進めた。そのなかで、近年盛んになりつつある「ダイアグラム」をめぐる議論が徴候的知におけるミニチュア化と密接に関わり合っている点を発見し、ダイアグラム論を徴候的知に関連づける視点からの研究を遂行した。また、中井久夫による「メタ世界」論の吟味についても、この展望のもとに吟味を重ね、ドイツにおいてハンス・ウルリッヒ・グンブレヒトが展開している「潜在性(Latenz)」をめぐる研究が、メタ世界論と大きく重なるものであることを軸に、人文科学全般における「潜在性」の議論をメタ世界論と結びつける考察を試みた。グンブレヒトは潜在性というテーマの淵源が20世紀半ば以降のドイツ史や近年におけるメディア環境の変容にともなう時間経験の変化と関連していると論じており、このような視点から徴候的知の再活性化を歴史的に位置づける作業も進めることができた。ベンヤミンやクラカウアー、エルンスト・プロッホといった批評・哲学の分野における「徴候的知」の体現者たちが、1920年代初頭に南イタリア、とくにナポリやカプリ島で一種の知的コロニーを形成していた点については、ベルリンのベンヤミン・アーカイヴで基礎的調査をさらに進めた。ベンヤミンやクラカウアーが非常に注目した、バーゼル出身でポジターノ在住の作家ジルベール・クラヴェルについては、この知的コロニーの精神的環境を知るうえで鍵となる存在として評伝の形式で研究を深め、「徴候的知」をめぐるケーススタディとしての書籍刊行を準備している。
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