本研究は、15世紀イタリアはシエナの建築家、彫刻家アントニオ・フェデリーギ(1438年から記録一83年)の主に彫刻芸術の展開に注目し、特にシエナに二度に渡り滞在したフィレンツェの彫刻家ドナテッロ(1386-1466)芸術をどのように受容したかを検証することを目的とする。 ヤコポ・デッラ・クエルチャ(1371/74頃-1438)の影響下にあった初期にアントニオが制作した大理石作品《聖母子》では、自律する衣の動きなどデッラ・クエルチャ様式を学びながら、強調された四肢の有機的な表現にすでに彼自身の特徴が明示されている。これらの特徴を発展させ彼が古代芸術に根ざす「荒々しい」独自の様式を確立できたのは、古典古代の文化を深く愛したシエナ出身の教皇ピウス二世(在位1458-64年)による庇護と、作品を実見でき、おそらく個人的にも知遇を得たドナテッロ芸術との出会いであった。本年度は、ドナテッロが1445年から50年頃に制作しシエナに送ったブロンズによる《ジョヴァンニ・ペッチ司教の墓碑板》、あるいは1457年から61年までシエナに二回目の長期滞在をなしたドナテッロが手がけた浮彫作品など、遠近法を強調した造形表現などに多大な影響をうけてアントニオが墓碑彫刻をはじめ浮彫を制作した事実を検証した。さらに本年度は中部イタリアのウルビーノにおいて、ジョヴァンニ・ディ・ステーファノ(1444頃-1502まで記録)らアントニオと密接な関係のあるシエナの芸術家の活動を調査し、ウルビーノ芸術の影響が逆にシエナのアントニオ周辺にもたらされた可能性を検討することができた。 シエナに現存するルネサンス建築の多くを設計したアントニオ・フェデリーギは、古典古代との関係からも、シエナのみならずイタリア・ルネサンスという大きな文化運動を体現する人物としてその存在意義は大きいことを指摘してまとめとした。以上を研究成果報告書として冊子体で作成した。
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