応仁の乱後における、新たなランドスケープの生成を考える際に、重要な役割を果たしたのは、絵所預の土佐光信であった。拙稿「室町絵巻の環境と表現」においては、描かれた山の表現に着目し、十五世紀前半の清凉寺本「融通念仏縁起絵巻」の土佐行広の観念的描写、十五世紀末の「槻峯寺建立修行縁起絵巻」における土佐光信の現地スケッチに基づく描写、さらに十六世紀中期の「桑実寺縁起絵巻」における土佐光茂の俯瞰的遠近感の表出にいたる、表現の変遷を比較に基づいて明らかにした。景観に対する視覚的把握法は、絵師の内的な変化だけではなく、それを取り巻く社会の変化と一定の関係性があると思われる。とくに光信の場合、絵の注文主や絵巻の詞書染筆者となった貴顕との交流の様相が、かなり具体的に知られる点で重要である。拙稿「土佐光信のコミュニケーション」では、『宣胤卿記』紙背文書から明らかとなった、公家の中御門宣胤と光信との間の画料をめぐるやり取りに着目した。光信は、宣胤の注文によって仏画を制作したものの、その画料の返還を申し出ている。このことは、連歌などを介した両者のつながりが、それまでの絵師と注文主の関係を超え、より強い精神的なものへと変化している可能性を示す。光信の子にあたる光茂も、父同様に絵巻制作に当たって画料を受け取らなかったことが知られており、十六世紀における新たな芸術家像の誕生を看取することも可能であろう。 こうした日本の中近世転換期における、職人から芸術家へという精神的な変化、そして景観をスケッチに基づいて現実的に捉えるランドスケープの成立は、欧州の南北におけるルネサンスにおいても同時並行的に進んでおり、比較文明史的な視野にたって、今後研究を進めていく必要があろう。
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