本研究は、楽人の家系や上演記録と実際の管楽器の楽譜の分析によって、江戸時代の雅楽伝承の系統を考察するものである。従来、雅楽の楽人は、京都、奈良(南都)、大坂(天王寺)の三方、あるいは家ごとに独自の伝承が保たれてきた。と考えられてきた。しかし江戸時代以降、三方の楽人は、演奏機会の共有や養子縁組によって、非常に頻繁で複雑な交流をしており、それに伴って「家の伝承」も必然的に交流している実態が明らかになった。本論は、その「人の交流」と、楽譜の分析による流派の具体的な音楽的差異を実証的に明らかにした。 本研究は、まず、南都狛氏の『狛氏新録』『楽所録』『芝家日記』、天王寺方の東儀文均の『楽所日記』、その他の系図、行事の記録などから、三方の楽人の家系と実際の上演機会(楽壇の状況)について考察した。江戸時代初期以来、奈良と大坂の楽人の一部は京都に住み、京都方楽人と一緒に活動した。たとえば、ある在京天王寺方の楽人は、大坂在地の親戚よりも京都方や在京南都方の楽人との交流の方が密であった。ここでは、三方の出自を越え「京都の楽壇」としての音楽的コンセンサスが形成されたと推察される。また、家、三方を越えた養子が頻繁に行われたことにより、一つの家の中に、天王寺方の篳篥、南都方の笛、南都方の篳篥、というように、異なる地域と技芸の伝承者が同居する状況があることも明らかになった。 龍笛と篳篥の楽譜は、江戸時代以降一般的となる唱歌(しょうが)譜を分析した。唱歌は稽古時に旋律を覚えるために歌われるため、家の流儀が強く出る。主な分析資料は宮内庁書陵部蔵の龍笛譜、篳篥譜(東儀兼頼撰、伝・伏見宮貞致親王撰、新浄安院所持譜、安倍季資校閲譜ほか15点程度)、専修大学蔵の一連の「狛家 横笛譜面(近貞譜)」、東北大学狩野文庫蔵の龍笛譜、篳篥譜(東儀文均撰、東儀鳳凰撰など10点程度)等である。その結果、唱歌の子音と母音の使用法、音引きの表記の点から、江戸時代には龍笛、篳篥各々数種類の唱歌の系統があり、一部は南都系、天王寺系と同定された。また、天王寺系の内部には異なる複数の唱歌体系が存在することもわかった。今日使用する『明治撰定譜』の龍笛唱歌は南都系、篳篥唱歌は天王寺の一系統を引くことが、江戸時代の唱歌の系統的整理から実証的に証明された。
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