昨年度まで続いていた金沢大学市民大学院プロジェクトが終了したことに加え、私自身の所属大学の移動も重なったため本年度から研究環境が大きく変ったことをまず報告しておく。 とはいえ、藤岡作太郎日記の解読・翻刻の作業自体は、市民大学院に参加していた市民研究員とともにひき続き行なうことができた。平成22年度の前半は従来どおり月2回のペースで、後半は金沢大学への出講がなかったため月1回のペースで開催した。また、日記の刊行に関しても、当初予定していた大学紀要への掲載が分量の関係で不可能にならたため、やむなく科学研究費平成22年度報告書として刊行した。そのため、直接経費の60%を印刷・製本費にあてたが、これは当初計上していなかった費用である。この点も研究環境の変化によるやむをえない処置であった。 本年度、大学院の講読テキストとして『近代小説史』を取り上げ、『日本文学史教科書』(初版明治34年)『国文学史講話』(明治41年)等と比較する作業を綿密に行なった。そこで得られた知見は7月の上智大学国文学会での講演に基づく論文「藤岡作太郎と上田秋成・序説」に生かすことができた。藤岡作太郎が上田秋成への関心を深めるのは明治36年に京都で行なわれた「上田秋成95年祭」に参加したことがきっかけであるが、京都・西福寺に残されている軸によりそのときの参加者が判明する。明治40年に富山房袖珍名著文庫の一冊として『春雨物語』を刊行しているが、これは『春雨物語』の最初の活字本あると同時に、その作業は、所蔵者である富岡謙蔵以下、この95年祭に参加したメンバーとの交友により実現したものであることも日記などの記述により明らかになってくる。そして、上田秋成に対する作太郎の認識が深まっていく様は、『日本文学史教科書』『国文学史講話』『近代小説史』それぞれにおける上田秋成に関する記述をたどることによって如実に知りうる。
|