本研究費を受け、文献資料の調査・収集、民俗例の調査を重ねた。その成果をもとに、精神医学、国文学、民俗学の知見を持つ研究者による研究会を定期的に行い、議論を深めて調査結果に検討を加えた。その成果は、研究年度終了から一月半後に一書として出版した(『「腹の虫」の研究-日本の心身観をさぐる-』名古屋大学出版会2012年5月15日刊)。 現在、心因とされる心身の症状は、古くは憑依をはじめとする霊因として捉えられることが多かった。病因として「虫」を想定するあり方は、病気を霊因として考えるのと同様の心身観を濃厚に残している。それゆえ、しばしばその形は奇虫、異虫とでも言うべき自然界の虫とはかけ離れたものであることがあった。また「鬼」とその性格の重なる「尸」というものも想定されていた。その一方で、病因として「虫」を想定することは、自然界にあるのと同様の存在を病因と考えることでもあり、その点では霊因を否定する側面をも持つものであった。霊的なものに対する場合とはちがって、虫に対しては駆虫剤が用意されており、かつての医学モデルで退治の方法が明確に存在したのである。病因としての「虫」の持つ複雑さ、多面性はさまざまな言説の中に見出すことができる。たとえば江戸時代における、顕微鏡による異虫の観察例などがその一つである。虫を病因として考えることは、心身の中心が五臓であるという五臓思想と密接に関わっていた。それゆえに、「虫」の居所は腹や胸とされた。幕末・明治になると、脳・神経を心身の中枢とする考えが導入されるが、それに対する江戸時代の医家達の反応を集成、分析した。また、明治に入ると五臓思想は医家の間では急速に廃れていくが、その過程で起こったさまざまな事象を分析・検討した。 以上のように、中世の医事書の言説の分析からはじまって、日本の心身観を解くキーワードとなる「虫」を中心に、日本の心身観についての学際的な研究を成し遂げることができた。
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