平成21年度に計画していたドライデンの歌劇理論については、調査ができなかったが、18世紀に入ってからのイギリス演劇と歌劇との関係について、劇場設置と演目との関わりを調べ、次の点が明らかになった。ヘイマーケットのクイーンズシアターは、歌劇を目的に造られた劇場ではなかったために、1705年のこけら落としでイタリア歌劇が上演されたとは言え、その後台詞劇も上演されて、むしろ歌劇で成功を収めたのは、ドルアリーレーンの王立劇場であった。『アルシノエ』『カミラ』『ロザモンド』などの歌劇はこの劇場で上演された。一度、宮内大臣の調整により、歌劇はクイーンズシアター、台詞劇は王立劇場と1708年に決められたのだが、やがてその決定も無視され、混合状態に戻ってしまう。クイーンズシアターが歌劇場として確立するのは、1710年のことであり、あたかもヘンデルのために1711年の『リナルド』公演を用意していたかのようであるが、おそらくヘンデルがロンドンの状況について情報を得て、『リナルド』公演を行い、大成功を収めたのであろう。というのも、その後上演体制が整わず、ヘンデルといえどもしばらく安定した歌劇公演を行えなかったからである。 コングリーヴの『セメレー』の分析からは、優れた作品であることが判明したが、エックレスによる作曲まで行われていながら上演に至らなかった理由としては、すでにイギリス人によるイタリア語での上演の要求が考えられる。19世紀にはアディスンやジョンスンの批判のみが重視されたが、18世紀初頭の状況は19世紀イギリスの主潮とは大きく異なっていたのである。
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