本研究においては、アイルランドの作家ジェイムズ・ジョイスが、1914年から1921年に渡って書き続けた『ユリシーズ』をはじめとして、ジョイス諸作品における身体イメージの分析と検討を重ねてきた。ジェイムズ・ジョイスによる特殊な身体表象の有り様を浮き彫りにするために、初期短編に頻出する<変容の失敗>のモチーフを丹念に検証し、このモチーフが中期の作品『若き芸術家の肖像』においても、ジョイスが作家的なテクニックを変えながらも持続的に探求し続けていることを明らかにした。 また、J・M・シングのような他のアーティストが取り組んだ変身・変容のモチーフを批判継承しながら、この作家の代表作であり、西洋モダニズム文学の記念碑的作品である『ユリシーズ』においては、人間の身体的・精神的変容のモチーフを肯定的に飛躍させたことを明らかにした。また、単に文学の枠を超えて欧米のモダニズム文化に大きな衝撃をもたらしたこの長編が、第一次世界大戦の大量殺戮兵器による大規模な破壊と国家的な荒廃の最中に書かれる一方で、作品中に膨大なカタログ式とも言えるほどの人間群像を盛り込み、それらの人々の日常的な身体性を活写していることを明確にした。 種々の批評理論の投入が中心を占めた過去数十年のジョイス研究と比して、身体性というテーマに特化した研究を行うことで、ジョイス作品における身体表象論という新たなアプローチの考察と形成に一定の寄与をしたと考えられる。
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