今次申請の研究は、中世ヨーロッパにおいて創作された複数のトリスタン物語を取り上げ、作品中にみられる海事表現を相互に比較検討することによって、中世人の海に対する意識の変遷を跡づけ、人間と海との関わりの普遍的な原点を明らかにしようとするものである。研究実施計画書に記載のとおり、平成21年度は現存する一連のトリスタン物語うち、フランス詩人トマの作品のドイツ語への翻訳であるゴットフリート・フォン・シュトラースブルクの『トリスタンとイゾルデ』を取り上げて分析と検討を行った。その結果、この作品には、他のトリスタン物語には見られない航海に対する厳密で明確な姿勢が随所にみとめられること、またそれらが初期ハンザ同盟の商業交易における海事思想を強く反映したものであること、そしてその結果、物語本来の性格に変化を与えていることが理解された。すなわちトリスタン伝説で語り継がれてきた「命運を委ねる海」のテーマが、本作品においては「克服するべき海」という視座から語られはじめているのである。このことは、中世時代、特に12世紀末から13世紀にかけて大きな進展を見せた海事社会の変化を知る上で大変興味深い手掛かりを示すものと考えられる。また同時に、これより後に書かれた作者不詳の『散文トリスタン物語』にも影響を及ぼしたものと推察される。研究実施計画書にあるように、平成21年度後半には『散文トリスタン物語』の解読と分析にとりかかっている。すでに第1巻と第2巻についての作業を終えているが、全体が9巻にわたる長大な作品であるため、全体の把握に至るまでには多くの時間を要するものと見込まれる。
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