本年度は昨年度に引きつづいて『散文トリスタン物語』13巻のテキストの読解作業を継続し、そこに見られる海事表現の分類と分析にあたった。『散文トリスタン物語』の特徴は『トリスタン物語』を壮大なアーサー王物語群に組み入れた点にあるが、結果として物語の地理的背景は、コーンウォール半島とブルターニュ半島、そしてウェールズに至る広範囲な地域にまで広がりを見せることになった。そこには海に隔てられた国々への移動のために海路の利用を余儀なくされた物語の登場人物たちが、あるいは順調な航海に恵まれ、あるいは遭難や漂流などのさまざまな海の難儀に遭遇する様子が描かれている。本年度の研究作業では、これらの航海にまつわる記述のすべてについて検討を加え、船舶の種類と運用、航海の旅程、艤装、海難事故など、本作品が成立したとされる13世紀当時の海上交通の実情を教える数多くのデータを収集することができた。 またこの作業と並行して、アングロ=ノルマン語領域で創作された『トリスタン物語』諸作品から収集された海事事象にかかわる記述部分と、平成16年度、17年度科学研究補助金による研究によって申請者がすでに構築している「ヴァースの海事表現」データとの比較照合をおこない、『散文トリスタン物語』における海事表現の特徴と作者の表現意図を明らかにする作業を行った。その結果としてアングロ=ノルマン語領域における海事思想がどのようなものであったのか、またそれらの思想が一連の『トリスタン物語』の諸作品にどのような形で反映しているのか、そしてそれらの作品が、中世の北西ヨーロッパの人々の精神風土に、どのような影響をもたらしたのか等の諸問題について、いくつかの知見を得ることができた。
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