中世のヨーロッパ社会において、海や浜辺は必ずしも推奨される暮らしの場ではなかった。むしろ海や浜辺は危険と悲惨に満ちた周縁的空間であり、そこで暮らす人々は根強い侮蔑と嫌悪の対象とされていた。とりわけ騎士階級においては、海を宗教的禁忌の空間ととらえ、溺死を恥辱と考える傾向が強かったと言われる。しかしこのような一般的な不評にもかかわらず、海を物語構造の要諦にすえた『トリスタン物語』は広く受容され、ついには中世における代表的な文学作品の一つとして評価を得るに至っている。今次申請の研究では、『トリスタン物語』を中世ヨーロッパにおける海洋への覚醒の証しとして位置づけ、主人公トリスタンを新たな海洋的人間像の創造という側面から捉え直すことによって、中世の人々の多くが抱いていた海の暮らしに対する強い不信の感情がどのように変化し、どのような過程を経て克服されていったのかという問題を解明することを主たる目的としている。 本年度は研究計画の最終年度に当たるため、平成21年度から考察を進めてきた数種の『トリスタン物語』を比較検討し、『トリスタン物語』という共通のプロットの枠組みの中で表明される航海技術や海事理念の変遷を、地域別、時代別に分析し、北西ヨーロッパにおける海洋的精神の醸成の過程を解明して、その結果を本年5月の研究報告書に取りまとめる作業をおこなった。この作業によって得られた知見のいくつかを挙げると、交易活動が隆盛期を迎えていた12世紀プランタジネット王朝下の詩人たちの作品には、海に活躍の場を求める新しい騎士像としてトリスタンを描き、人びとを海に対する覚醒へと誘おうとする意図が読み取れること。また13世紀のドイツ詩人ゴットフリート・フォン・シュトラースブルクの『トリスタンとイゾルデ』には、初期ハンザ商人のきわめて合理的な海事思想が濃厚に反映されていること。さらに13世紀のリュース・ド・ラとエリー・ド・バロンの作とされる『散文トリスタン物語』には、交通機関として常用されはじめた船舶の利用実態が描き出されていることなどである。
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