本年度は、大阪北部の寒天製作仲間に関する史料として、丹波寒天仲間の一家である黒田家文書、北摂寒天仲間の一家である古藤勘治家文書を収集して、その内容を分析した。また伊豆の史料としては、西伊豆戸田村の名主であった勝呂家文書を収集した。これらから、次のようなことがわかった。日本近世において、全国的な寒天生産における原料供給地として、天草の最大の水揚げ量を誇ったのは、東伊豆地域である。そこでは浦請という方式で天草の独占的購入権が設定されており、近世後期には、その浦請の請負金額が上昇したため、原材料である天草の代金が高騰し、大阪寒天問屋や北摂・丹波寒天製作人仲間の経営を圧迫したこと、またこれに伴い、大阪寒天問屋らは請負人に対して天草代金の引き下げを要求し不買運動を起こしたこと、しかし幕末期には寒天製作地が大坂北部のみならず信州にまで広がるなどしたため、請負人はこうした新たな天草の販路を求めて、大坂寒天問屋による不買運動に対抗したこと、などが、原料生産地側からの視角で明らかとなった。また北摂地域においても、丹波地域においても、寒天製作地は山間村落であり、薪炭生産なども同時に盛んで、寒天釜での煮沸に必要な薪炭が隣接地域で供給可能であったこと、しかし寒天製作は原料の確保や寒天仲間としての株や製作道具、またそれらを用意する資金などを必要とし、広大な製作場所が不可欠であったため、村内の他の百姓との軋轢を生んだこと、さらに当該地域の村落は村内が小集落ごとにわかれ、なおかつ多田郷士などの多様な特権を有する階層が散在したため、各村落内での寒天製作人と百姓との対立関係は複雑化する傾向にあったこと、などが明らかとなった。
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