近世の大坂では浄瑠璃に対して積極的な関わりを求める「素人」や「連中」といった人々が広範に展開していた。彼らは十八世紀後半頃から急速に成長する。素人の活動そのものは稽古文化の域を出るものではなかったが、ときには全段の一部だけを上演する「見取り」上演の流行と連動して興行の形態にも影響を与えるなど、総じて浄瑠璃文化の再生産の原動力となっていた。それは、とりわけ浄瑠璃が大坂という都市を基盤に発達したことと無関係ではない。こうした都市民衆のあり方を「社会的結合」の観点からとらえるならば、「社中」「組」なる結合形態が注目される。その実態はまだ不明な点が多いが、もともとは、たとえば近くの「稽古場」でともに研鑽を積むなど、ある程度は地域的な結合をもっていたと考えられる。それぞれの「組」は、素人の結合組織という点では共通性をもちながらも、たとえば「川竹」組は芝居と深い関わりをもち、「ざこば」組は魚市場に基盤を置くなど、地域の性格によって「組」のありようもそれぞれにちがっていた。やがて、大坂の市域の拡大や都市社会の成熟とともに、「組」の結合単位が細分化され、ゆるやかな地域分布をもつ「組」が登場するようになる。その展開過程からは、素人浄瑠璃の普及が都市大坂の変遷と密接な関係をもっていたことがうかがえる。 また、浄瑠璃作品の内容においても、十八世紀なかば頃から変化が現れる。近松門左衛門の作品が、「一分」という言葉で十八世紀前半の町人社会に内在する対面意識を描いたのに対して、「顔」という言葉に象徴される、侠客たちのストレートな義侠心が芝居の主題として躍り上がってきたのである。身分制社会の内実が変化してゆくなか、身分意識や道徳的規範にもとづく「一分」よりも、外見的表象である「顔」に人々の関心が移っていったと考えられる。
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