本研究は、幕末維新期の長州藩の政治過程について、長州藩を主たる研究フィールドとして、総合的に解明しようとするものである。本年度は、長州藩村落における対外的危機の実相および薩長盟約の成立と展開について分析を進めた。このうち村落における対外的危機に関する研究成果をまとめておけば、以下の如くである。(1)文久3年5月、長州藩の攘夷実行と外国軍艦の報復攻撃により、長州藩内では広く対外的危機起こった。そのため海からの砲撃に備え、対策として海岸部の萩城から山口城へ移鎮、長府城から田倉(勝山)城への移鎮が行われた。また、海岸部へ砲台の築造が行われた。その工事においては、民衆の自発的参加、同年の萩菊ケ浜土塁の築造における諸階層の広範囲な地域からの自発的参加があった。(2)元治元年6月の黄波戸浦におけるアメリカ船来航と砲撃に対して村落における危機が起こり、同年8月の四国連合艦隊による下関砲撃は、長州藩が完敗し、非常な恐怖を発生させ、市街地および村落において危機が起こった。これらの状況下における村落史料を分析することによって、幕末期長州藩村落における対外的危機の存在を確認することが出来た。(3)この危機意識を前提に、慶応元年・2年の幕長戦争において、幕府と諸外国が結託して長州藩を攻撃してくるという認識が生まれ、民衆が積極的に参戦する動きにつながった。(4)明治以後も、対外的危機意識は根強く残存し、外国人による童女誘拐の風聞が流布し、明治4年ころまで危機意識が残存した。
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