保元の乱後の混乱した状況の中で、信西を中心に大内裏復興事業が進められた。その目的は、即位儀礼をはじめとする王権儀礼を整備することであった。そのため、大内裏でも、儀礼の出席者の視覚を意識した建造物の復興が優先されたことが明らかとなっている。そのような研究状況をふまえ、王権の所在する京都の都市的な変化を中心に位置づけて、研究を進めた。その際に重視したのは、鳥羽殿において確立した王家の「権門都市」がどのように京都との関わりをもち、その後の展開を示したかという点である。最近JR京都駅周辺での考古学的発掘によって、八条院周辺の実態がしだいにあきらかとなっている。八条院という女院は後白河天皇の異母妹であるが、王家の大半の荘園を父鳥羽院から継承した。そのために、王権の中心が京都の八条周辺に移動し、王権に結びつこうという勢力も、八条周辺に拠点をもうけた。そして、後白河自身が、譲位後、八条に近い鴨川左岸の法住寺殿を拠点としたのである。また、八条は七条町という京都最大の商工業地域と隣接し、交通・流通の拠点であった。さらに、後白河院政は平清盛との提携関係を明確化することによって確立するが、その際に平氏が中心に展開しつつあった日宋貿易との関係をもつことになった。こうした問題に注目し、後白河院政の背景を深めた。夏期休暇を利用した中国出張での王権所在地に関する知見を参考に、さらに研究を進める方向性が明確となりつつある。
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