後白河院は、宇治平等院や鳥羽勝光明院の宝蔵を模して、院御所法住寺殿内の蓮華王院に宝蔵を建立した。宇治や鳥羽の宝蔵は、摂関家や王家(天皇家)の権威を確立するために重要な意味をもっていた。王家の主流とみなされず、その権威に問題のあった後白河院は、蓮華王院宝蔵に大きな意味をもたせようとつとめた。それは後白河の「王権」にとって要ともいうべき重要性をもっていた。後白河は、藤原頼通や信西などの漢籍蒐集の影響も受け、目を中国との関係に向けていた。すでに、前代から摂関家、王家ともに、中国からの一切経輸入などを通じて、その権力の荘厳化を試みていた。後白河はその動きを加速させる。その際に重要だったのが、早くから日宋貿易に注目していた平家、とくに清盛との提携であった。平家は大宰府との関係を強化することを通じて、日宋貿易の掌握につとめていた。また、重源や栄西などの入宋をはたした僧侶たちとの結びつきを強化していた。清盛や重源・栄西なども後白河との関係強化は、その活動に有利となった。蓮華王院宝蔵と日宋貿易との関係が、このようにかなり密接であったことが、今年度の研究によって判明してきた。
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