本年度は太平天国の西征史について多くの分析を行なった。その第一の目的は食糧補給ルートの確保にあり、北伐を支援する意図がこめられていた。また南昌攻撃は楚勇の抵抗で成功せず、各地の呼応勢力と連携することが出来なかったことを解明した。 次に西征の第二段階として、1853年後半の湖北進出と安徽盧州への攻撃について考察した。まず安徽では翼王石達開が地域経営に着手し、徴税や科挙が実施された。また太平軍が湖北へ進出したが、間もなく盧州を攻撃した。清朝は江忠源を盧州救援に向かわせたが、太平軍は盧州を占領して江忠源は戦死した。 この頃武昌では満洲人である湖北巡撫崇綸と漢人である湖広総督呉文鎔の対立が表面化し、崇綸は呉文鎔を告発して、彼を黄州で敗死に追い込んだ。呉文鎔は曾国藩率いる湘軍の編制完了を待っており、曾国藩は崇綸を激しく批判した。この内紛は清朝内部に満洲人と漢人官僚間の矛盾が存在していたことを示しており、同様の対立は欽差大臣勝保(満洲人)と山東巡撫張亮基(漢人)の間でも見られた。 だが今回の調査によって、当時は満洲人官僚の間でも深刻な対立が見られ、その関係は中央の動向も含めて複雑な様相を帯びていたことが明らかになった。北伐軍対策をめぐって対立した勝保と欽差参賛大臣僧格林泌(満洲貴族)はその例であり、江南提督和春も陜甘総督舒倫保(共に満洲人)を告発した。 客家正統論をベースに強烈な漢人中心主義を唱えた太平天国であったが、彼らは清朝官吏を容赦なく殺害し、その投降を認めることで清朝内部の様々な矛盾を有効に活用することが出来なかった。この点清朝は北伐軍兵士の投降を認め、彼らに「義兵」を結成させて太平軍鎮圧に活用するなど、柔軟な姿勢を見せていたことが確認された。
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