研究概要 |
平成24年度の研究では,中世末期(14世紀末から15世紀末頃まで)における,「ドイツ帝国」化した神聖ローマ帝国と,皇帝=ドイツ王の理念と現実の政治情勢との相克を具体的に検証した。 14世紀末から,コンスタンツ公会議(1414~1418年)及びバーゼル公会議(1431~1438年)を経て,1470年代初めに至る80余年間の時期は,公会議運動の優勢な前期と,教皇権側の巻き返しが奏功した後期に分けられるが,西欧地域において「国民教会」確立への志向と・実践が進んだ時期でもあった。フランスのブールジュの『国事詔書』はもとより,フス戦争の成果である『プラハ協約』,ハプスブルク家と教皇庁の『ウィーン協約』等がこの時期に成立する。 一方,ドイツ(神聖ローマ帝国)においては「帝国改革」の動きが,即効的効果は伴わないが一貫して深まりつつある時期でもあった。これらの状況の下で,教皇ピウス2世の教会政治活動と,これに対する皇帝=ドイツ王,世俗諸侯側の反応や対抗関係の渦中で,反教皇的姿勢を貫き,現実に破門され,財産没収を被った法曹家グレゴール・ハイムブルクの論著を分析することにより,ドイツにおける教会との関わりを解明した。加えて,彼と同じく早期人文主義者であり,やはり都市民出身の法曹家マルティン・マイアのボヘミア王イジー・ポディエブラドとの関わり,彼を担いでの新国王選出活動,帝国改革がらみでの諸侯側の新国王選出への動きを追いつつ,教会・帝国双方での改革の流れを検証した(論文「15世紀教会改革と帝国改革の一側面」)。 以上に本研究課題による研究期間に発表した論文「Konrad von Weinsberg考」を補訂して合わせて,研究成果報告書冊子『ドイツ中世末期の政治と政治思想の研究』(約80,000字)を作成した。
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