十九世紀ロシア帝国の文化統合におけるロシア正教の役割を解明するために、本年度はチトリノフ、フロロフスキイ、スモリチなど神学史・神学教育史・教会史に関する先行研究に依拠して1808-1814年の宗教学校改革の内容を分析し、この改革の主導者であるスペランスキイ、フェオフィラクト、フィラレートおよび新制神学アカデミイの教授フェッスレル、クトネヴィチ、ゴルビンスキイの思想動向を概観し、さらに新制神学アカデミイの修了生ナヂェージュヂンの思想形成を分析することで改革後の宗教教育の現場実態の解明に取り組んだ。 その結果、1812年にスペランスキイが失脚するまでの改革の基本路線が、主教区から自立した聖職者養成の中央集権化をめざしつつ世俗一般教養とくに哲学・文学、歴史・地理・数学を重視し、従来のラテン語偏重を修正して聖書の原典購読とそのためにギリシャ語・ヘブライ語など古典語教育を強化することをめざすものであった。しかし神学・哲学教育に限ってはラテン語を指導言語として指定したためにカトリック系ラテン語文献やプロテスタント系ライプニシッツ・ヴォリフ派の哲学教科書を用いることになり、それ以外の教科に関してもロシア語教科書は不十分であったため、古典古代の文献やカトリック圏のラテン語文献を指定せざるを得なかったことを明らかにした。本研究で中心課題と位置づけた護教論(アポロゲチカ、弁証神学)に関してもラテン神学文献を教科書として指定しており、その上この分野については重視しないように指導していた。 とはいえ、教育現場では必ずしも教科書通りの指導がおこなわれず、近代ドイツ哲学がかなり流入しており、1824年以降の流の反改革潮流なかで教育現場も混乱したが、ロシア語・ギリシャ語・近代西欧語教育および哲学・文学の分野での新しい課程は、神学校出身の新しいタイプの知識人を生み出す知的土壌を形成したことが明らかになった。
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