本年はロシア正教聖職者の子弟でモスクワ神学アカデミーの卒業生ニコライ・ナデージュヂンの「回想記」の分析に基づいて、彼の自己形成の過程を同時代の神学校教育改革の動向と関連させ、かつ彼の読書歴、人間関係の取り結び方を中心に分析した。ナデージュヂンは後にモスクワ大学教授としてスタンケーヴィチ、コンスタンチン・アクサーコフをはじめ1840年代の思想家たちに強い印象を与え、自分が創刊した雑誌ではベリンスキイを導き、そこにチャアダーエフの「哲学書簡」を掲載して政府や社会に衝撃を与えることになる。本研究での分析は、19世紀初頭に改革されたロシア神学校教育がアカデミー内部での神学・哲学の水準を引き上げ、教え子たる教区司祭や神学校教師だけでなく世俗学校や、世俗論壇で活躍した神学校出の知識人を通じてロシア文化史の一翼を担ったこと、神学生ナデージュヂンの自己形成史はその顕著な事例の一つであったことを示した。本研究成果は『スラヴ研究』第58号(2011)に掲載される予定である。 今後の課題として第一に、ナデージュヂンの神学校時代の教師であるフヨードル・ゴルビンスキイの神学観をとくに検討することが重要であることが明らかになった。また、この二人の師弟に共通する問題意識は、ロシア正教の信仰上の伝統を古代ギリシャ・ローマ文化以前のアジア的世界(インド、ペルシャ、バビロニア)に遡及させて理解しようとする傾向である。第二の課題としては、ドイツ観念論哲学の受容という側面と同時に古代アジア世界への関心の起源に検討することである。
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