19世紀前半のロシア正教神学は、ロシア帝国の文化統合の促進に資 するべき正教独自の護教論を構築するという明確な課題意識を擁していたわけではなかった。 そのうえ、多くの創造的なロシア正教神学者たちは、概して世俗帝国権力に対して一定の距離 をとっていた。ようやく 1870 年代以降になって、ロシア正教のオリジナルな護教論の構築の試 みが着手され、さらに同時代状況とロシア正教信条の独自性に合致した護教論の体系化が志向 されるようになるのはおおよそ 1905 年以降のことである。その背景には、ロシア正教会内の右 翼の過度な守旧主義・自民族中心主義に対する改革派神学者たちの危機感の高まりとともに、 世俗の青年・学生たちの神学への関心の増大があった。しかし、西欧の護教論文献と比較する ならば、非信仰者との対話の特別な回路としてのロシア正教独自の護教論文献の質と量は限定 的であり、またロシア正教神学者たちの思想の傾向は必ずしも一枚岩的ではなく、彼らの間で の深刻な対立も無視し得ないものであった。したがって、全体的には、多宗派・多民族の住民 から構成されていた帝国の文化統合の過程に積極的に関与しようとするロシア正教の神学者た ちの取り組みは極めて脆弱だったといえる。
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