研究概要 |
朝鮮半島の古蹟調査は日本による植民地政策の一環として始まった。1916年に「古蹟及遺物保存規則」が制定されてから本格的な調査段階に入り、年度ごとに調査報告書も刊行されたが、それ以前は関野貞(東京帝国大学)一人の力に負っていた。その関野貞が収集・作成した資料が東京大学建築学教室に保管されている。完形品はすでに報告されているが、その他に土器破片が多数あり、それは箱に入ったまま未整理であるので、これを整理調査した。 1910年10月22,23日に関野貞が調査した高霊ではフィールドカードと土器破片57点、1910年10月25日の昌寧、同27日の威安ではフィールドカードど土器破片34点、1912年10月29,30日に調査した下詩洞里古墳群ではフィールドカードと土器破片44点が残され、フィールドカードを読み解くとともにこれらをデーターベース化した。高霊の土器破片には所謂「高乖式長頸壷」が3点含まれるほか、3種類の形態の蓋の紐があることが確認され、また筒形器台が多数含まれる特徴があった。昌寧、威安は地域の異なる古墳群であるが、土器の注記には「昌寧、成安」と書かれ区別ができない。戦後に調査された古墳の土器と比較すると、多くは昌寧出土の土器であるようだ。1909年12月に調査した慶州の西岳里石枕塚は、近年韓国文化財研究所が慶州古墳の精密調査を行っていることから本年度の研究に追加した。出土の土器は3点であるが、1909年調査時の記録とあわせて研究資料化した。 こられにより、いままで知られていない土器が研究資料として活用できるようになった。
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