6世紀末から8世紀初頭の期間、政治・文化の中心地だった「飛鳥・藤原」地域には、数多くの宮跡や寺跡が残されている。さほど広くない地域に造営されたこれら宮や寺の配置を律した「都市計画」=「方格地割」を発掘資料から復元するのが本研究の主たる目的である。「方格地割は存在しない」とするのが学界の現状である。しかし、発掘された「道路」や「区画施設(塀や築地)」の位置情報を再評価すると、飛鳥には「1/5里」(約106m)と「1/4里」(約132m)を基準寸法とする2種類の「方格地割」が時期と範囲を違えて施工された可能性が高い。これまでは複数の方眼が重なりもつれて、見つけ出せなかったようだ。 今年度は計画の最終年として、これまでに調査・収集した発掘遺構データを総合すると共に、その位置データを「国土座標値」に統一しながら遺構の年代や性格などを再検討した。あわせて古代の測地尺や地割に関する研究史についても再評価し、当該地域における方格地割の変遷過程を以下のように復元した。 すなわち「飛鳥・藤原」地域では、7世紀前半に1/5里を基準寸法とする方格地割が幹線道路の設置と共に計画・施工され、ついで7世紀中頃には1/4里の方格地割へと変更される。さらに7世紀後半には藤原京条坊(1/4里)が新たに施工されたが、それも平城遷都後には条里制(1/5里)へと転換する。この地域では、実に4度も土地区画が変転したのだ。一方、この地割の基点は6世紀末に創建された飛鳥寺伽藍にある。 「飛鳥には方格地割が存在した。それも複数!」。これが本研究の結論の一つ。わが国の方格地割は1/5里を基準寸法とする「代制」から始まり、それが「条里制」へと発展する一方で、1/4里の基準寸法をもつ方格地割が斉明朝から登場。それが後の藤原京や平城京の「条坊制」へと展開していく。正方位にのった1/4里方眼こそ、わが国の首都にのみ施工が許された地割で、まさしく「王権の地」としての表示である。その意味で、大宰府や多賀城、斎宮で確認されている「方格地割」は、基準寸法・方位などの点で相違する。 ただし飛鳥ともども、関連の発掘データは微少である。その増加が今後への大きな課題である。
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