本研究の目的は、古代日本における法倉の実態を総合的に解明し、法倉が古代の地方支配において果たした本質的な意味を解明する点にある。 平成23年度は最終年度であり、静岡県掛之上遺跡(遠江国山名郡衙正倉)、千駄塚浅間遺跡(下野国寒川郡衙)などの資料調査を行った上で、成果をまとめて研究報告書の作成を行った。 その中で、郡内に複数の正倉が設置される場合、本院だけでなく別院にも超大型倉庫(法倉)が設置されている例がある点や正倉院のなかでもっとも目立つ高所に建つ例が多く、官道側に向くなど景観を考慮していることを指摘した。また、法倉とみられる倉は国分寺創建前後(8世紀中頃)に礎石建物として建てられる一方、一般的な正倉(凡倉)の礎石建物化は8世紀後半以降になり、法倉と凡倉の高質化には時期の違いがある点も明らかにした。 さらに、これまで限られた史料から、法倉は凡倉に比べて大型の倉であると考えられてきたが、単に倉の規模からみるだけでは不十分であり、法倉は規模だけでなく、正倉院中の位置や区画施設、構造などさまざまな要素から総合的に検討し、凡倉とされた倉との関係の中で考えなければならない点を示した。 このように考古学的に各地の郡衙正倉を分析して、法倉に相当する威容を誇る倉の造営が8世紀でも早い時期から始まることを明らかにし、法倉は古代国家が国郡制に基づく地域支配をすすめるなかで、国家権力の誇示を含めて建設されたと考えた。
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