『共産党宣言』は、本来、1848年2月に手工業職人・労働者を主とする秘密結社「共産主義者同盟」の1年間限りの綱領として無署名で刊行された。かかる性格の文書がいかなる経緯で現在のようにマルクスおよびエンゲルスの起草したものとして周知されるに至ったのか。この過程を、1864年の国際労働者協会創立以前、特に1850年代を対象に解明するのが本研究の課題である。第2年度は下記の成果を得た。 1)前年度行った1850年代半ばのイギリス労働運動における労働者議会におけるマルクスの位置づけの検討から、研究対象期間を1854年3月以前に限定できる点について一層確実に証拠立てるため、1860年秋に出版されたマルクスによる論争書『フォークト氏』以降は、『宣言』の起草者名がかなり普及していることを、ベルンハルト・ベッカー著『1848年および現在のドイツの運動』(1864年刊)における「この『宣言』はマルクスを信奉する党が出した」(S.45)とする文言等によって確認した。 2)起草者名明示の契機となった1850年9月の同盟分裂後、中央指導部はケルンに移転するが、この移転により大陸における同盟の活動性が高まり、プロイセン当局に注視されて、「ケルン共産党裁判」に至ることとなる。この経緯を確認し、中央指導部移転についての基本文献であるカール・オーベルマン著『共産主義者同盟史1849年~1852年』(1955年刊)第3章を邦訳した。 3)「ケルン共産党裁判」の審理においては、『宣言』がマルクスとエンゲルス2名によって起草されたというより、マルクスによって起草されたとされており、裁判についての新聞報道においても同様であることを追試確認した。
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