当該年度においては、日産自動車の戦後初期の人員体制の変遷を明らかにしていくために、労働組合と締結した労働協約の変遷を精査した。日産では1946年8月に労働協約が締結されるが、1948年にほ会社側が破棄し、新しい労働協約を提案した。これに対して労働組合は、対案をもって臨み、破棄を撤回させるとともに、労働協約の改訂へと結実する。従来、この労働協約は、解雇等についての同意約款を守ることができたという点で基本的には労働組合側の勝利という文脈でのみ論じられてきた。確かに、同意約款の体裁をとった48年の協約改訂は、労組優位のなかでの休戦状態となったことを意味するが、経営側にとって必ずしも敗北を意味するものではなかった。労使協調が維持される限りにおいて、従前の組合側の既得権を容認するという項目(第35条、36条)が加えられ、協議不調により経営施策の実施が阻害されないようにすることができたからである。他方、労働組合にとっては経営側からの協約破棄の通告は、経営側と労組との対立関係を意識させる具体的な契機となった。それまで産業復興、企業再建を唱えて会社に協力してきた組合にとって、労使の対立は総資本や政府の次元に位置づけられていたが、それが企業内での課題として認識されるようになったということである。最後に、この労働協約を精査するなかで明らかになったこととして、組合員の範囲から臨時工を外すというのは、組合からの提案である可能性が明らかになった。残念ながら資料的制約からこの点については断言できないが、しかし、もし会社側からの提案であったとしても、組合がそれを争点化することなく受け入れたことは確かであり、その後の臨時工を活用する人員体制の確立において、労組のこうした態度が大きく影響することになる。
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