本研究の課題は、 課題(1)旧沖縄縣時代における沖縄本島のハンセン病者の社会的現実の解明、 課題(2)同縣下での〈救癩〉活動の解明、 課題(3)同時代の沖縄社会においてハンセン病療養所の構築過程と療養生活がもつ社会的意味を、課題(1)(2)の関連から示し、沖縄のハンセン病問題の社会文化的特性を示すことの3点にあった。1907 年に 「ライ予防ニ関スル件」が公布され、浮浪病者たちの保護・救恤が可能となったが、沖縄本島区では、1938 年の「國頭愛楽園」開園まで、 病者は放置の現実にあった。 1927 年から青木恵哉は沖縄で 〈救癩〉活動を展開し、1935 年に服部團次郎らが「沖縄 MTL」を結成したが、同組織は屋部の「焼討ち事件」の遠因を作り、〈救癩〉活動は苦境におかれた。ピアな立場から病者たちの信頼と関係を築いた青木は、金武の〈隔離所〉に衝撃を受け、療養所の構築を構想しはじめた。
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