「公害」を伝える「語り部」をメディアとしてとらえたときに何が見えてくるのかを本研究では明らかにしようと試みている。特に、多大な公害被害をもたらした熊本と新潟の水俣病の「語り部」の講話の場がどういう力学を持つのかを中心にフィールドワークを行い、暫定的ではあるが、以下の2点がわかってきた。 1、自らの体験を伝える「語り部」は、忘れ去られようとする過去を我々の前に提示するが、それは単なる「過去」ではない。「過去」に起こった出来事の現在の話である。語られる話は過去の「事実」に対する現在の解釈だし、その「事実」が単に過去のものだとは言い切れない。我々はそうした過去を含めた現在、そして未来を、「語り部」が語ってくれることにより共有することができる。語られる言葉は単なる「事実」ではなく、「語り部」の「思い」であり、〈語る/語られる場〉を共有することによって、その「思い」が伝わる。また、物理的な場を共有しなくても、ドキュメンタリー映画のようなメディアによって、「語り部」のメッセージを共有することもできる。時空を超えて、「語り部」やドキュメンタリー映画を作った人びとの「思い」が伝えられるのである。 2、高齢化する「語り部」の問題を考えると、誰が「水俣病」を伝えるのか、誰が「語り部」になり得るのか、という課題に向き合わざるを得ない。狭義の「当事者」にこだわるのではなく、「当事者性」という観点から、今後どのように「水俣病」が「記憶」され「記録」されうるのかを考える必要がある。
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