研究概要 |
児童福祉法には、起草者・松崎芳伸に見られるように児童を労働力として捉える社会政策的児童観と、児童を権利主体として捉える児童観との2つの児童観が内包されている。これについて若干の先行研究において注目されてきた。しかし、児童福祉法における児童観の相克や対立が、すでに1937、8年頃から児童保護事業の目的をめぐる児童観論争として姿を現していたことについては知られていない。この時期の児童保護事業については、先行研究では「人的資源」論に基づくものとして「一色」に塗りつぶされる傾向にあった。そこで本研究では、1937,8年頃から41年頃までの主要な社会事業雑誌の論文・記事を対象に探索、検討した。その結果、次のようなことが確認した。社会事業論壇において「人的資源」をキー概念とする論文は志村博(厚生事務官)によって1939年に著されるが、より大きな影響を与えたのは磯村英一のものであった。磯村は、大河内一男の社会事業論を意識しつつ、この頃より「人的資源」にもとづく社会事業・児童保護論を展開し、さらに1940年には日本社会事業研究会(磯村や牧賢一らが中心メンバー)「日本社会事業の再編成要綱」などを発表していく。ここでは社会連帯思想や慈善思想、「児童の権利」思想などが「自由主義思想」「旧思想」として否定された。これに対して、「児童の権利」にもとづく児童保護論者・菊池俊諦(武蔵野学院長)、童心的児童観を堅持した高島巌(子供の家施設長)、児童のケースワークを叙述することで「政策的処理」を批判した小宮山主計の抵抗があった。それは児童を人格として捉える視点を失わないものであった。 この時期に見られる児童保護思想の相克・対立が、戦渦の拡大、児童問題の深刻化のなかでどのように推移し、戦後の児童福祉思想を準備したのか。今後の検討課題である。
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