既往の日本児章保護・児童福祉思想史研究が前提としていた「児童の権利」認識は次のようなものである。第1に「児童の権利」という考え方は、戦前日本の児童保護分野には見ることはできず、戦後改革期の産物と見なすものである。第2に「児童の権利」という考え方は、大正デモクラシー期には萌芽的に見られたものの、昭和恐慌期から戦時体制下には逼塞させられたと見なすものである。両者に共通するのは、戦前・戦時下と戦後を断絶したものとして捉える歴史像である。 しかし、本研究が明らかにしたように、戦時下、社会事業の新体制が叫ばれ、児童を「人的資源」と見る見方が体制的な児童観となった時期でさえも、それに従うことなく、菊池俊諦(武蔵野学院初代院長)は自らの執筆活動において「児童の権利」を唱えつづけ、高島巌(子供の家施設長)は童心的な児童観から子どもの意志や自発性への希望を表明しつづけていた。 また、戦後に眼を転じてみると、既往の研究は、児童福祉法の児童観を、「人的資源」として児童を見る見方を克服し「児童の権利」思想に基づくものとして描こうとしてきた。しかし、本研究が明らかにしたのは、同法起草者松崎芳伸(当時厚生省社会局援護課職員)が児童を未来の労働力として捉える児童観を強くもっていることであった。そこで松崎が理論的根拠としたのは、戦時下、大河内一男の人的資源論に基づく社会政策論であったことも確認した。 こうしてみると、日本の児童保護・児童福祉の思想史研究において求められるのは、人的資源論から児童の権利論へと戦前/戦後の断絶説で歴史を捉えていくのではなく、「人的資源」論と「児童の権利」論との対立の構造が総力戦体制下(戦時下)の児童保護において成立し、それが戦後、児童福祉法に内在していく過程や構造を明らかにしていくことではないかと思われる。
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