今年度の研究では、府知事退官後の林市藏の実業界での経歴と大阪府方面顧問としての発言を検討することによって、林のいう「方面精神」の基盤となる考え方について考察することを目的とした。その際、方面委員またはその類似制度が全国に普及し、さらに救護法の制定される直前の1928(昭和3)年までを一応の視野に入れた。 林自身は、救護法制定後の方面委員は、その補助機関と位置づけられ、さらに方面委員令の制定によって全国的に統一された制度となり、大阪府方面委員制度そのものも変質したと考えていた。 ところで、方面委員の自発的活動としての地域住民組織の創出に触れつつ、それは民本主義の時流への迎合・同調がみられるとしながら、その反面、「社会改造」「住民自治」の概念が安易に矮小化される傾向があらわれがちであるとする指摘がある。 この場合、「牧民官」林にとっては、「政党臭」のある自治に対する反感が、方面委員の心情と一致していたと考えられる。「牧民官」林は、「方面道場」において、時には叱咤激励し、時には訓戒しつつ、「無報酬の報酬」「慈善は人の為ならず」を説き続けた。しかし、方面委員の一人ひとりは、それぞれの思惑の中でその活動に従事していた。そして、その総体として地域支配の再編が行われた。大阪府方面顧問林市藏は、時代の息吹を取り込みながら、時にはそれと対峙しつつ、前半生の経歴を支えた「牧民官」意識を抱いて、自ら創設した方面委員制度に関する責任を全うしようとしたのであった。
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