研究概要 |
大阪府方面委員制度は全国の方面委員類似制度にとってモデルとして採用しやすい条件を備えていたとされる。すでに1922(大正11)年7月常務委員会の冒頭挨拶で中村忠充社会課長が「(内務省での社会事業事務打ち合わせ会において)社会事業に関する委員設置要綱という印刷物の配布を受けたが其中の要目は凡て大阪府の方面事業要項に基いて居」たと報告し、成績不振な府県は大阪の常務委員会のようなものがないのも理由の一つだと説明があったと述べていた。確かに「中央並びに他府県各地方関係者の注目を惹くことになり、大阪府方面事業に対する視察者が、年を追うて増加する傾向」であり、「他の府県においても,先進地を範として」類似制度が普及したのである。ただ、これらは表面的な事実経過である。 大阪府方面委員は,1931(昭和6)年末までの取扱総数887,572件という活動実績を有していた。そして常務委員は、互選であることが示すように一般方面委員にヘゲモニーを有したが、林市藏は方面理事・沼田嘉一郎を初めとする常務委員に隠然とした権威を感じさせていた。林は、小河滋次郎の設計や定式化を実体化させる場面でキーパーソンであり、大阪府方面委員制度創設期の方向性に影響を与え続けたといえる。だとすれば,「牧民官」林市藏の抱負は、相当程度に実現されたことになる。 しかしこの後,大阪府方面委員制度が救護法体制下でどういう変質を遂げ、林を初め大阪府方面委員はそれをどう感じていたか。それはさらに検討の必要な別問題である。
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