3年間にわたる「教育的パフォーマンスにおける伝授の両義性の研究」の最終年度であり、今年度をもって本テーマは終結した。今年度の成果の主要部分は、論文「コミュニケーションにおける引用可能性と教育的パフォーマンス」に示されている。そもそも本研究は、2009年に発表した論文「『ふりをする』ことの伝授としての教育」に端を発し、2011年の論文「行為の両義性としてのパフォーマンス--教育的コミュニケーションへの示唆」および今回の上記論文との3論文を合わせて三部から成っている。第一の論文は、人間のあらゆる行為が<ふり>という面をもっていること、すなわち、行為が一定の目的を求めて遂行されながら、同時にそれ自体が演技として表出されるという両義的なあり方をクローズアップし、その教育的な意味を考察した。第二論文は、この<ふり>をあえて「パフォーマンス」と表現し、このパフォーマンスが状況に応じて、あらゆる社会的文化的構成物の現実性と虚構性の度合を規定していることを論じた。その際、行為遂行のメッセージの背後もしくは上位のレベルにおいて、行為者の直接的意図にはないメタ・メッセージが発せられ、そのメタ・メッセージの望ましい受け取られ方としては実質上コンテクストだけが頼りであり、教育者にはその点の配慮が求められるという結論を得た。このことを受けて第三論文は「コンテクスト」に照準を定め、J.デリダの考え方に拠って「引用可能性」という観点から、一般に自明の前提とされている「意図」と「表現」という二項図式それ自体に疑問を投げかけた。かくて「意図」は、「表現」が所与のコンテクストにおいて展開する一種の運動のなかで生み出されるという独特の考えに想到し、このことが教師の発するメッセージにとって持つ重要かつ微妙な意味を最終的に突きとめている。
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