本研究の目的は、日本の2つの総督府が置かれた台湾と朝鮮における教育政策策定の具体的過程、特に両植民地で実施された教育政策相互間の共通性と差異を検討することを通して、戦前日本の植民地教育政策の構造的特質を解明することにある。すなわち、本研究は、史資料の検討を通して、台湾と朝鮮における教育政策の展開の具体的過程、その共通性と差異を明らかにする事により、植民地権力と本国政府の関係、植民地政策の決定主体を明らかにしようとするものである。 台湾植民地初期における教育は、当初は国語学校を中核として行なわれ、漸次分化して各種教育機関が発達していくこととなった。台湾総督府は教育施策を進める上で必要に応じて適宜、各学校令、諸規則などを公布したが、1919年に「台湾教育令」が出されるまで、総合的な教育法令が公布されることはなかった。一方、台湾より15年遅れて植民地となった朝鮮においては、併合の翌年である1911年には「朝鮮教育令」が出されている。植民地化前の旧韓末において日本の統監府により、植民地教育制度が既に形成されていたためである。この(第一次)朝鮮・台湾両教育令は、1922年2月6日、同時に改正され、「(第二次)朝鮮・台湾各教育令」に変えられた。日本の枢密院においては、朝鮮と台湾の教育令を共通するものに変えようという力が働いていた。しかし、両植民地内における民衆の対応により、特に中等教育において日本人生徒と植民地生徒の別学体制を取るか(朝鮮)、共学体制を取るか(台湾)という差異が生じた。その後、1938年に朝鮮教育令は全文改正され、部分的共学体制が取られるが、台湾教育令はこの後、部分改正の形が取られている。
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