本研究は、アメリカ教育研究学会(AERA)、アメリカ心理学会(APA)、アメリカ歴史学会(AHA)を対象に、1970年の初頭に学会内に設立された、女性の地位と役割に関する委員会(女性委員会と略記)が、どのようにして、女性研究者への積極的支援政策を生み出すに至ったのか、また、学会内で、どのようにして新たな研究上のプラクティスが生み出されていったのかを解明することを目的とし、本年度は、女性委員会の設立の経緯と1980年代初頭までの政策を分析の対象とした。 (1)女性委員会の設立は、当時の社会改革の諸運動-フェミニズム運動の第二の波、反戦運動、マイノリティの権利回復運動など-と緊密に繋がっており、女性委員会にはこれらの活動家・実践家が当初から含まれていた。このことは、女性委員会が、学会あるいは学術界内における女性研究者問題だけでなく、広くアメリカ社会における女性問題と取り組まざるをえなかったことを意味した。 (2)1970年初頭、年次大会への参加・ジャーナルの著者表示・学会執行役員に占める比率といった点で、女性研究者は見えない、あるいは見えにくい存在であった。これを解決する方法として、女性委員会は、アファーマティブ・アクションの論理を採用したが、これは必ずしも支持を集めることはできなかった。 (3)女性委員会が提言した政策は、三学会とも、女性が学問研究の主体である同時に客体でもあるという問題を意識したものであった。すなわち、女性の研究者としての自立と成長を支援すると同時に、女性についての学問研究を支援するという双方の活動が含まれていた。 (4)研究上のプラクティスの変化は、年次大会における育児サービス実施から、ジェンダーを意識したジョブ・プレースメント、さらには、ジェンダーの問題を組み込んだジャーナル特集の決定など、今日では常識になっているそれらに見て取ることができる。いずれも、女性委員会が生み出したものであった。
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