江戸の都市史を概観すると、江戸以前の小さな寺社を核とする農地や森林と、交通要地などの町のランドスケープがまずある。江戸期には江戸城を中心に武家、寺社、町人地の明確なゾーニングがなされ、都市改造によって寺社は徐々に江戸外縁へ移転する。江戸成熟期になると寺、檀家と門前による宗教と経済活動の連携と、武家、町人と農家による経済的な連携による領域が重なる。このような都市の明確な構成は、明治の寺社領・武家地上知によって一旦リセットされたかのようだが、寺地は墓地を伴っており庶民の生活と信仰に深く結びついていたため、容易に移転し消滅するものではなかった。本研究においては、江戸東京の変貌の中で「元の地点」を留めている可能性が高く、今後も維持され得る領域として「寺地」および「墓地」に着目し、現代までの領域の変化についての特徴を探ることを目的としている。本年度は研究の最終年度として、江戸の寺地変遷についての論文執筆と地方都市の寺院墓地調査を実施した。 昨年度までの調査・研究のまとめとして、渡邉美樹、「台東区西浅草の寺町の変遷」、日本建築学会計画系論文集、第78巻、2013年3月、pp.715-723を執筆した。西浅草地区は、明暦大火後寺院移転によって寺地が拡大しその後も密度を高めるが、市街地拡張の影響を受けて更に郊外へと移転した寺地領域が認められた。さらに、明治期の地籍においては、寺地全体が官有地である寺院が数多く、前著「台東区谷中地区の寺地の変遷」、日本建築学会計画系論文集第76巻pp.2255-2262で得た結論とはことなる知見を得ることができた。地方都市の墓地(寺院墓地)については、金沢、能登、鳥取、出雲を調査した。特に金沢については、金沢城から浅野川を挟んで北東の卯辰山麓に墓地を伴う寺院が密集し、さらに南に寺町と広大な霊園など、江戸や京都と同様な都市構成がみられた。
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