本研究は、近世後期における江戸庶民の旅を、費用の調達と必要経費の側面から検討するものであったが、庶民の旅の実際を伝える「旅日記」の蒐集範囲を関東地方一円にまで広げ、当該地域の庶民の旅を比較対象として設定することで、江戸庶民の旅の特徴を相対化しようと試みた。蒐集した100編余りの旅日記を基本的な歴史資料として、今年度は江戸庶民の旅費の傾向が近世後期の関東地方の中でどのように位置づけられるのかを検討した。すると、関東地方の庶民の中で特に経済的ゆとりを有していた江戸庶民は、道中においても比較的多額の金銭を消費する傾向にあったことが確かめられた。この現象は、商工業に従事して日常的に現金収入を得られた江戸庶民が、その他の関東地方の庶民(大半が農民)よりも多額の旅費を調達し得たために可能になったと推察される。したがって、近世後期における江戸庶民の旅は、費用の面からみて豊かな娯楽であったといえよう。また、当時代における庶民の多くが旅費の調達手段として用いた「講」組織について、近世において講の活動が活発であった地域(東京都板橋区)を中心に調査を試みた。その結果、近世後期の講組織は、宗教的色彩を醸しながらも、実際には庶民の娯楽的活動を担う組織として機能していたこと等が見出せたが、この点については今後も継続的に調査していく必要性が看取された。他にも、近世後期における庶民の旅費の問題を「近代性」を尺度として検討したところ、旅という行動において不可欠な現金を介して食事を得る行為が、貨幣経済を広範に流通させる契機となっていたことが明確となった。ゆえに、旅という娯楽は、「近代」という時代の到来を促進させる意味合いをもっていたといえよう。
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