「近代日本のラジオ体操と「身体」の政治」では、ラジオ体操の発明とその後の歴史的展開、その役割・機能を明らかにするとともに、ラジオ体操がラジオというメディア・テクノロジーを介して「国民」という主体を形成し、国家的な装置の一つとして果たした役割について検討した。ラジオ体操は、欧米諸国に対する劣等感の克服のための健康づくりの運動として、そして「身そのものの合理化」のための運動として開始され、国民生活の隅々まで浸透した。また、戦時下におけるラジオ体操は全国一律の人々の身体を動作させ操作することによって、個々人一人一人の身体を「国民」の身体として感じ、考え、行動するものとして集団化・集合化し、規律化する装置として機能した。ラジオ体操は人々が自分たちを国家やある一定の集団の一構成要素であり、社会的実体の一部分として認識するものとして機能したのである。 「幻の東京オリンピック」の祝祭性と政治性に関する考察」では、戦前から行われた東京招致の軌跡、大会準備の足跡、東京市の都市振興・帝都復興計画とオリンピック開催を通した国民意識の発揚・皇国イデオロギー強化、東京オリンピックと「皇紀二千六百年」のかかわりについて分析した。東京オリンピック招致は震災から復興した「帝都」の繁栄を世界にアピールしていこうと考える東京市の動きの中で進められていたのであるが、その後、招致活動の途中から推進の理由として「皇紀二千六百年」記念行事が付随した。「皇紀二千六百年」のオリンピック構想は、万博と共に、日本の国際的孤立解消、皇国民イデオロギー高揚策として国策化されていった。 「国家権力装置としての国民体育大会に関する一考察」では、国民体育大会の政治性が露骨にあらわれている諸問題の中で、国体と象徴天皇制の問題、国体における天皇杯・皇后杯ふりまきシステムの意図、国体における日の丸と君が代問題、自衛隊と国体協力問題などを詳しく分析した。これらを分析することによって、戦後日本社会における「国家権力装置」としての国体の持つ政治性を明らかにした。
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