今年の研究では、まず、国民体育大会(以下、国体)が変容しつつも開催され続けている原因を分析しようと試みた。高度成長期に国体が肥大化しつつ引き継がれてきた構造はすでに分析している。問題は高度成長期の終焉以降、種々の問題が指摘されながらも現在にいたるまで国体が続いている理由である。経済効果の点で国体が持つ役割は80年代以降、確かに変化していると思うが、90年代半ばまで「開発主義」が存続したことを考慮すれば、自民党の地域支配と結びついた国体開催が政治的にストップをかけられて来なかったことは理解できる。開発主義システム内に国体というイベントは位置づけられたのである。ではなぜ、90年代以降(構造改革以降)国体が続いているのか、という問いが残される。国体開催はすでに社会経済的な根拠を失っており、開発主義の残滓にすぎないという見解もありうると思う。道州制が提起される時代に統治の側からの必要性は薄れたといわれて当然だからだ。社会経済的には東京一極集中が進み、富の偏在が極端になっている現在、国体にある種の再分配機能が備わってしまったのかもしれない。この点は具体的分析ぬきに明言できない。「ゆるキャラ」などにみられる、新自由主義時代における地域主義の存立形態についても検討する余地があるように感じる。 さらに、論文「近代日本における国民形成と兵式体操に関する一考察」では、近代日本においてどのような身体が望まれるようになっていったのか、それはいかなる目的、方法で作り替えられたのかを兵式体操に焦点を当て分析した。また、論文「スポーツとナショナリズム、その親和性を問う」では、スポーツとナショナリズムとの関係、スポーにおけるナショナリズムの高揚に深く関わりのある国旗・国歌によるシンボル統合、オリンピックとワールドカップにおけるナショナリズム、グローバル化とスポーツナショナリズムについて明らかにした。
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