この世を過ぎ去った無数の人びとがいた。そして私は偶さかに生き残る。 二度にわたって焦土と化した二十世紀ヨーロッパの、ありふれた存在の光景であったろう。誰もが、大戦の生き残りだった…と言いうるからである。また、その地で哲学する者たちには「世界という大きな書物」(デカルト)の読み解き方を一変させた出来事であった。 二つの大戦を経験したマルティン・ハイデガーの思考圏でふたたび見えやすくなったことであるが、人間は、ないこともありえた世界に人間は偶さかに生まれ落ち、偶然事の尽きることなき連鎖から逃れえない。ショアーを知った哲学者エマニュエル・レヴィナスは、そうした容赦なき偶然が生んだ焦土を目前に〈顔のエティカ〉を提示する。とはいえ、かつて心酔したハイデガー哲学に対する批判を通じてのことであった。 日本に目を向けよう。「遇うて空しく過ぐる勿れ」という一文で『偶然性の問題』(1935年)という哲学書を結んだのは、ヨーロッパ遊学から帰国して京都大学の哲学教師となった九鬼周造である。レヴィナスと同様、ハイデガーから強い影響を受けた九鬼であるけれど、偶さかの出会いに結ばれた二人が、一種の輪廻的時間から、その共同存在にそなわる意味を了解することに注目し、ハイデガーとは異なった道を進んでいる。この道の出発点には、『「いき」の構造』(1930年)で示された〈いきのエティカ〉がある。それは、遊女と町人がおりなす善美な共生のエティカであった。 本研究では、こうしてレヴィナスと九鬼がそれぞれ独自に展開した倫理学の成り立ちを照らし出すため、ハイデガー『存在と時間』を中心とした思考圏に属する「超越」概念を光源に選び、ハイデガー、レヴィナス、九鬼の哲学的思考を比較する共通地平を設定した。
|