本研究は、「マレー」「マラヤ」「マレーシア」などにかんする諸思想を18世紀末から現代まで歴史的にたどることによって、マレーシアにおける国民的なアイデンティティの形成のなりたちを思想史的に読み解くものである。「多民族社会マレーシア」という言説は二段階を経て形成されている。第一の段階は19世紀半ば以降のイギリスの植民地の進展にともなっていた。ここでマレー半島(マラヤ)は意味のある空間として形成されたが、移民たちは不可視の存在であり「多民族社会」という言説は成立していなかった。第二は、第二次大戦後のイギリスによるマラヤ連合案やアメリカ合衆国を中心とした地域研究のなかで、「プルーラル・ソサエティ」という言説が登場し、支配的な地位を獲得していく段階である。この段階において、マレー人、中国人、インド人が均質なエスニック・グループとして言説的に構成され、マラヤ(のちにマレーシア)は、「多民族社会」であるという表象を獲得する。しかしながら、「多民族国家マレーシア」へと収斂されていくこのような過程は、支配的な言説の構築によって抹消されてしまう異質で雑種的なものとの折衝の過程でもあった。汎マレー主義者だけでなく保守主義と分類される論者も、意味ある空間としてのマレー半島の自明性やエスニック・グループの均質性に異議を唱えていた。その折衝の過程では、現在のマレーシアとは異なる可能性が提示されていただけではなく、あらゆる国民国家の境界に疑義を示す雑種的なものの可能性が示されていた。しかしながら、それらは国民的な言説の支配性の確立のなかで消去されていった。
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