本年度は3年にわたる研究計画の最終年度にあたり、1年目と2年目におこなった情動理論にまつわる基礎研究をベースに、イギリスにおける「モダニズム」の歴史的展開を踏まえて、具体的な作家・作品分析を仕上げることを目的に研究をおこなった。そのうえで特に注目したのが、しばしば「19世紀的リアリズム」によって特徴づけられるヴィクトリア朝の文学と、20世紀初頭における盛期モダニズムの台頭との境界線上に位置する、19世紀末に活躍した作家たちであり、この研究では特にその作家たちを「初期モダニズム」ないし「発生期のモダニズム」と位置づけた。まず、Tsuda Reviewに掲載した論文では、19世紀末に作家としてのキャリアを開始したMay Sinclairの作品を、自然主義作家George Gissingの作品と比較した。Gissingに見られる公衆に対する世紀末的不信とは対照的に、Sinclairの小説は文学・文化と社会との互恵的な関係性を想像しており、特にその想像がT.H.Green的British Idealismの思想に影響を受け、「名誉/恥辱」という感情の語彙に依存している点を指摘した。だがこのような感情の語彙の有効性はSinclair自身が後の作品で疑問に付すものでもあり、その点にSinclairのモダニズムへの移行が観察できると結論した。次に、『オスカー・ワイルド研究』に掲載した論文では、Oscar Wildeの作品における「批評/批判」というテーマの変遷をたどりつつ、そのなかにいっぽうでは盛期モダニズム的な大衆文化蔑視、他方では、自己変容的な情動をともなう「ユートピア的衝動」の実演が見てとれることを指摘した。後者の点は特に、Wildeの社会主義論と獄中書簡をつなぐ線に見いだすことができる。イギリスの盛期モダニスト、例えばWyndham LewisやT.S.EliotはしばしばWildeに対する両面価値的な態度を示しているが、Wildeの批評の再読と同時にこれらのモダニストのWilde観を具体的に再検討することにより、この論文では、初期モダニズムの角度からの盛期モダニズムの見直しの方向性を示した。
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