本研究では、フランス19世紀文学における愚者像を比較検討し、その特質について全体的な知見を獲得することを目指した。そのためにはまず「愚者」の定義が必要になるが、ルネサンス以降の西洋に限って言えば、エラスムスの「狂気」、フローベールの「愚鈍」、ドストエフスキーの「白痴」という三つの概念が、互いに対立する契機をはらみつつも、「愚者」の周辺で一つの大きな問題系を成していることが分かった。また、フランス19世紀文学の愚者像に限って言えば、ピネル、エスキロール、モローら同時代の精神医学者たちによる狂気や白痴についての著作からの影響が大きいことも判明した。以上を手がかりとして、19世紀前半の作家であるバルザックにおける愚者像を考察したところ、過剰な思考や激しい感情の結果としての心身消耗状態と、単調な職業生活や物質主義に由来する精神硬直状態が、どちらも見かけ上の愚かさを生み出していること、そして多くの愚者がどちらかの系列に属する一方で、両者を一身に統合したような半ば怪物的な登場人物(ゴリオ)もまた存在することが明らかになった。他に19世紀前半の作家としては、『ノートル=ダム・ド・パリ』で知性はないが心優しいカジモドを主人公にしたユゴー、『歌姫コンシュエロ』で「村の白痴」ズデンコを登場させたサンド、『パリの秘密』でビセートル救済院を描いたシューなどが注目される。これらの作家と19世紀後半の作家(フローベール、ボードレール、ゾラなど)についての個別研究はこれからであるが、そのために必要な基盤づくりは本年度の研究によって達成できたものと考える。
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