島根県飯石郡飯南町の明眼寺文書の整理を進めるとともに、同寺文書の撮影と史料分析を行った。また、西本願寺文書から浄土真宗の神祇不帰依の宗風をめぐる争論に関わる史料を抽出し分析した。 そのうえで、これらの新たに見出した史料をもとに「近世真宗における神祇不帰依の宗風をめぐる争論の構造と展開」と題する論文を執筆して投稿した。この論文では、山陰地域の争論事例の検討を通じて、18世紀前半から真宗の僧侶による宗風の門徒に対する教化の徹底が図られること、僧侶間に教化に関する方針の相違は見られるが特定の地域で紛争が繰り返されることにより、寺院僧侶集団による宗風の徹底に向けた取り組みが行われるようになることなどを明らかにした。 また、紛争が頻発する背景に、門徒による講を基盤にした信仰にかかわる活動の活発化とこれに対する領主による統制があることを指摘し、こうした非制度的領域における活動を正当化しようとした真宗僧侶の対応が神職との争論を誘発することになったことを明らかにした。 さらに、このように争論において真宗僧侶と神職が対立する構図になる理由については、当該地域における宗教施設と宗教者との関わりや宗教者の構成(僧侶の宗派構成など)など、宗教社会史的環境に求められることも指摘した。具体的には、山陰地域の浄土真宗優勢地帯である奥飯石(出雲国飯石郡の広瀬藩領)では、僧侶や修験者あるいは村の百姓が管理する神社・小祠・森神が少なく神職がおもに管理していたこと、こうした特徴は他の真宗地帯とは異なる状況を示すものであったことなどについて触れた。
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