第二次世界大戦下のインドシナにおいて、ヴィシー派が率いるフランス植民地政権はヴィシーのイデオロギーに基づき、反共和主義的な国民革命を展開し、駐留する日本との共存関係を5年近くにわたって実現してきた。戦後、こうした事実が、ドゴール率いる新たな共和国フランスにとって「都合の悪い」問題として認識されるようになる。戦後フランスで開かれたインドシナ調査委員会では、戦時中にインドシナにいた多くのフランス人が召喚され、彼らの態度、行動が厳しく追及された。そこで問題となったのは、大した抵抗もせずに日本人を受け入れ、彼らに対し様々な便宜をはかったことや、ヴィシー体制に賛同し、そのイデオロギーの普及に関与したこと、ドゴール派の活動を弾圧したことであった。糾弾されたフランス人たちは必死に自己の行動を弁明したが、調査にあたった当局の追究は容赦ないものであった。 ドイツに対するあっけない敗北、本国でのヴィシー政府による対独協力といった問題を抱えるフランスにとって、戦後、連合国との密接な協力のもと、国際社会へ復帰を果たすことは重要な問題であった。アジアにおいてもフランスは、インドシナに対する宗主権の継続を主張し、大国としての地位を確保するために、戦時中のインドシナが孕む様々な問題をカムフラージュし、戦後処理に積極的に関わっていくことが重要であると認識された、そのために、日本の戦争犯罪を裁いた東京裁判やBC級裁判の一つであるサイゴン裁判は、フランスにとって、インドシナの状況を弁明し、日本の侵略行為を糾弾し、国際社会における存在を強調し、かつ戦後におけるインドシナ統治の正当性を主張するためにも重要な舞台であったといえる。 当研究は、フランスの戦後にけるインドシナ再支配の実態を明らかにするための一端となるものであり、これによって、今までほとんど注目されてこなかった、日本人戦犯裁判とフランスの関係を明らかにすることができた。
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