第二次世界大戦下の「日仏共同支配期」を経て、フランスは戦後、インドシナに復帰を図る。しかしながら、仏印処理から日本敗北までのフランス権力の不在期間に、反仏運動が広がり、独立運動が発達し、終戦と同時にベトナムにはホーチミン率いる独立政府が樹立されるなど、フランスにとって植民地支配の再確立は容易ではなかった。そこでフランスにとってもっとも重要であったことは、戦時期のインドシナにおけるヴィシー体制を否定し、日本との協力関係とを清算し、共和主義の連続性を強調し、他の連合諸国との密接な協力をはかりながら国際社会に復帰することであった。戦後のフランス当局は、戦時期インドシナでくりひろげられていた「日仏共存」関係を追及し、その当事者らの粛清を図る。戦後フランス本国からインドシナに送られた「新たな」フランス人と、戦前からいる「古い」フランス人の間には緊張関係がひろがり、新たな体制下での支配強化のための「団結」からは遠い状況であった。そのようななかで行われた日本人戦犯裁判であるサイゴン裁判と東京裁判は、フランスにとって、公的な裁判という場で、インドシナにおける日本人の「犯罪」を糾弾し、日本人のインドシナ支配に完全な終止符をうち、さらに日仏協力関係を否定するための重要な舞台であったといえる。さらには、他の連合諸国との密接な協力関係を確立し、国際的にフランスの「地位」を主張する機会でもあった。しかしながら、これらの裁判において、日本人による現地住民に対して行われた犯罪は裁かれることなく、そこには、やはり戦時期に共産主義者をはじめとする現地住民を弾圧してきた、また、戦後には独立運動を武力で阻んで植民地支配を再開しようとするフランスの思惑と、この裁判の限界をみることができるであろう。
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