本研究は、瓦を通してみた6~8世紀代における日朝交渉、特に新羅との関係を検討している。今年度は、韓国公州・扶余・益山地域の軒瓦資料(新羅による征服以後)の収集につとめた。そして日韓両地域の資料を集成する中で、相関性が認められる資料群を抽出し、その紋様的、製作技法的な関係を具体化させた。特に、益山王宮里遺跡出土軒瓦と飛鳥寺東南禅院の瓦との関連が認識できた。 また、慶州地域で新たに確認された花川里瓦窯などの踏査を実施した。そして、引き続いて、新羅の地方の古代寺院の瓦資料を集成した。 それ羅の基礎的な作業によって、宇治市隼上り窯産の軒丸瓦や飛鳥寺東南禅院所用と推定される軒丸瓦に認められる新羅との関係を検討し、筆者なりの見解を得ることができた。 宇治市隼上り瓦窯跡4号窯に伴う軒丸瓦は飛鳥の豊浦寺に供給される。これまでA型式は「高句麗系」、E型式は「百済系」と考えられてきた。ただ、それぞれの製作技法の差異性と共通性、そして朝鮮半島における類例を検討すると、むしろ新羅から渡ってきた異なる技術伝統を有する二組の工人達によって製作された可能性も考えられる。 白雉4年(653)5月に学問僧として唐への留学を果たした道昭は、帰国後に飛鳥寺の東南隅に禅院を建てる。その所用軒丸瓦(5つの型式)はそれぞれ独自性が高く、系譜をたどると新羅、百済、そして中国南朝に系譜が追え、相対的に新羅的要素が色濃く認められる。また丸瓦部に朝鮮半島系の「竹状模骨丸瓦」を用いている点も特徴的である。 以上のように、7世紀の瓦資料からみると、日本(倭)と新羅は継続的に7世紀を通して交流を重ねていたことがうかがえる。その背景として、朝鮮三国の抗争の中で、折を見て倭との提携を模索する新羅の姿を認めることができた。この成果については、論文としてまとめ、投稿した。
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