本研究は、古代都城の成立とともに設置されたと考えられる都城の「葬送地」の実態を明らかにするために、当該期の東アジアにおける葬制に関する資料を集成し、考古学的手法を用いて「葬送地」とそこへ葬られた墓の抽出をおこなうことを目的としている。研究最終年度にあたる本年度は、補足調査として国内の地方官衙遺跡周辺の踏査をおこなった上で、4年間の研究の総括をおこなった。 東アジアでは、古代都城の成立により、居住区と墓域との区分が明確となり、墓域は都城の外側に設置されている。この墓域は、都城周辺に無秩序に作られるのではなく、政治的な背景をもって設置されており、そこに各国の統治思想・政治意識・国際意識などが反映されている。本研究では、古代東アジアの都城と葬送地との関係について、①都城・交通路との位置関係、②墓構造・立地からみた階層性、の2点に着目した。 日本では、都城背後に天皇陵を配置し、都城から視覚的に遮断された大和高原や生駒山麓に官人墓地が作られた。また墓構造の分析からは、造墓の際の決まったシステムの存在を示唆する階層性を見出し、背景として「喪葬令」に則った葬送がおこなわれた可能性を考えた。新羅・百済では、王陵が都城への進入路に面して立地する点に特徴があり、これらは視覚的側面を重視して設置されたと考えられる。また、新羅王京周辺の火葬墓や、百済の石室墳には階層性が存在し、日本同様「喪葬令」との関連が考えられる。中国では、唐代皇帝陵周辺において、立地・墓構造・副葬品に明確な等級制度に基づく造墓がおこなわれた一方、長安城周辺では、居住区にほど近い城外での家族・氏族墓地が営まれた事例も存在する。 以上、本研究で見出した各国の都城と葬送地のあり方の違いとその背景について、分析結果を総括するとともに、考察をおこなった。
|