最終年度となる本年度は、前年度までの調査の結果にもとづき、下記の各地でろくろの普及過程に関する追跡調査を行った。 (1)秋田県川連漆器産地では、複数の「挽き師」を訪問し、会津漆器産地と同様の「鈴木式ろくろ」が使用されていることを確認した。同産地で水力の「鈴木式ろくろ」が最初に導入されたのは大正3年であり、大館の古閑久太郎が県の斡旋で購入したという。その後、木地屋小椋岩衛門の孫佐藤直蔵が会津から川添民之助夫妻を技術者として招致し、自宅裏の工場にて指導を受け、精度の高い木地椀が大量生産できるようになった。これにより。鈴木式ろくろ」が普及したという。その証左として日吉神社の境内には、大正9年、鈴木治三郎を顕彰した。惟喬親王碑」が建立されており、生産業者である親方衆と木地屋衆の名前が刻まれている。その祭典は現在5月に「木地親王会」(昭和32年発足)により行われている。 (2)沖縄県本島では、琉球漆器の製造販売会社を訪問し、山中漆器産地と同様の横座の電動ろくろを確認した。ただし、挽物木地を担当する職人への聞き取りからは、足踏み式の「山中式ろくろ」や山中漆器産地との関連性については判然としない。 (3)長野県山之内町では、四代続く足踏み式ろくろによる挽物細工の工房を訪問し、正面座の足踏み式ろくろを確認した。旧下高井郡平穏村では明治時代以降、一位や槐、桜や梅など近在の広葉樹を用いた挽物細工が渋温泉土産として盛んに製造されるようになった。これは仕上げに漆を塗布せず磨きを施すのみであり、漆器とは一線を画すものである。技術の系譜を辿ると初代は山本助蔵のもとで学んだという。山本は和算家でもあり、第四回内国勧業博覧会にて一位製木製盆を出品し褒状、新潟県主催一府十一県連合共進会で梅木製茶盆を出品し六等賞を授与された人物であることなどが明らかになった。このように挽物細工振興の背景に博覧会や共進会の果たした役割や広葉樹利用促進の動向が指摘される。
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